野良猫への道

「今の自分を別のもので表現すると」と考えた時に真っ先にイメージ出来たのが「野良猫」だった。

元々幼少より猫が傍にいる環境だったこともあり、猫には並々ならぬ親近感を持っているし、前項の自分がなりたいイメージが正にそれに近かった。と同時にある種の憂いを孕んだその生態の背景こそ寧ろ自分そのものの様な気がしてならなかった。


・野良猫の性質

1.媚びない・気高い・好き嫌い極端、故に単独行動を好む

自分が変わるにあたり、第三者的な目線で自分の性格の癖を紙に書き落としてみた。

気を使い周囲に合わせ、自分を失くし、結果ストレスが溜まり病気にまでなり自己否定の人生を長いことしてきた。

その様な感じで人と合わせ過ぎることで結果自分という存在を否定する悪い流れが出来てしまった。

思い起こせば幼少学生社会人・結婚生活と生きていく中で「人に認めてもらう為、ひいては愛してもらう為」を目的として生きてきた気がする。

とはいえもしその対極にある、自分が傷つかない考え方があり、それを会得しすがることで気持ちが楽になったとして、凝り固まった考え方・行動は結果別の望まない事象を生むだろうという危惧があった(事実そんな人間を何人も見てきた)。

では自分はどうなりたいか?この世界にどう関わっていけるのが良いかを考えた。

結果辿り着いたのが1.の様なスタンスだった。そしてその為に何より必要だったのが「自己愛」だった。自分が嫌いで自分を否定し続けた人間がそれを得る為に、社会的なステータスや後ろ盾、成績、外見等という移ろい易いものではなく、ありのままの個としての自分自身を許容できる部分を探した。それは「何事にも一生懸命頑張れること」だけだった。結果は二の次でいいからとにかく何事も一生懸命やろう。その積み重ねは必ず自分の道、ひいては自分自身を作ってくれるはずだと信じ、ただ一意専心やり続けた。

それを己のベースとし、1.になるように心がけたことがある。

a.ストレスを〔極力〕溜めない。

b.ものの考え方

c.〔極力〕自然のまま生きる

a.自分自身があやふやだから人に媚び左右されストレスが溜まる。つまり自分がぶれていることを修正する必要があった。それにあたり、前述の後輩実業家から習った「時間管理」の概念が最適だった。他にある様な時間的効率を求めるようなものではなく、それは己の価値観を軸とした人生設計、それに基づいた時間管理法だった。正に自分を再構築したい私にはうってつけだった。それを会得した今では自分を好きになり、自分の生きる時間というものを真に有意義に考え使うことが出来るようになった。

c.どうも世の中は下図の様な人間関係模様の法則があるらしい。

「法則」というと眉唾物だし、初めは懐疑的ではあった。しかしどれだけ好かれようと思っても相手が全く受け付けない場合があり、逆の場合も存在する。それを普通に考えても日本人口が12000万人いる中で、その全てに好かれることは100%有り得ないし、全てに嫌われることも100%有り得ない。ならばこの「法則」とやらを物差しとしてもいいのではないか。そう思い、以前の様に「嫌われない様に」行動するのではなく、「あ。自分を嫌いな側の人か」と無理に好かれようとせず、自分のままに生きることを選択し行動することを旨とした。そもそも嫌いなものは「嫌い」でしかないのだ。それは相手も同様、どう注力してもそれは変わり得ないのだと。

だから嫌いは嫌いでいい、ただその人から学ぶものはあるだろう。そんなスタンス・自然な考えに己を委ねた。それに限らず自然の流れというものに逆らうから自分自身が傷つき、果ては嫌いなってしまうのだと考える。朝日と共に起き、落日と共に休息へ向かう。疲れたら休む。嬉しかったら喜ぶ。悲しかったら泣く等を当たり前の様にやること、それが自分を大切に生きること「自己愛」の一部と今では考える。

それを支えるb.ものの考え方 に関しては後日追って投稿していくのでご関心あったらご覧頂きたいと思う。

2.幼い頃に家族と離れる過酷な世界と孤独が待っている。

大概の生物は母体より生まれた後、一定の親の保護期間を経て一つの子としての生活を始めるためにその元を離れてゆくものの、大多数は離れた瞬間から自然界の手厳しい洗礼を受けそのまま短期間で死んでしまう個が殆どだ。しかし中にはその環境を生き抜き、結果立派に生体として自分の足で立って歩いていく個も存在する。しかしその過程はもとより、その個は以降も生きていく為の戦いをしていくこととなる。それは野良猫も同様であり、自然に加え人間の作り出した様々な危険を掻い潜りながら雑多な都会を孤独に生きている。

私はその姿を想起し、孤高ともいえる逞しさを感じた。様々な悪条件と闘いながら、自らの力で食事を調達し生き抜いていくその生きざまに憧れにも似た感情を抱いた。色々なものに打ち負かされ、自らをがんじがらめにしてきた私にとって、彼らは強さ、ひいては自由の象徴だった。彼等の様に個としての逞しさをもって生きていきたい。言うなれば「野生」が欲しかった。だがそれは裏を返せば自己責任能力が絶対不可欠である。それ故に「自己愛」に基づいた体調管理・ストレス管理・時間管理の実施、そうなるべく施行したものの考え方や自分のしたい仕事に必要な知識の吸収に時間を優先的に割いた。その甲斐あってか今ではどんな状況であれ、大概はクリアしていける自信がついた。難儀があってもそれを知識、経験等に変換できる糧と捉え、明日からの自分に活かせるようになった。そんな自分が好きになり、また新たな行動を起こす。云わば正のスパイラルの流れに乗れた自分を感じている。

少し前の話でこんなことがあった。

母に「貴方達兄弟を可愛いと思ったことはなく、ただ一生懸命育てることだけに心を傾けていた」と言われたことがある。それだけ全力で育児をしてくれたと肯定的に捉えようとしたが、現実母のしている行動を見ると「私の行動に頼っている」と同時に「弟に心を配っている」点は否めなかった。そんな背景を肌で悟り、瞬間自分には愛情はずっと向けられてなかったんだと寂しい気持ちになったが、それに対して私の出した一応の結論は、

「それでいい」

だった。

口動より行動が真実だと、仕事の師であり後輩の実業家に習ったことがある。非常に偏った受け取り方と結論だと自分でもふと思うが、それでも我がたった一人の母、私の母を愛おしいという気持ちは変わらないので、万一立場は変われども、母の心を最優先させ、本当の別れの時が来るその時まで私の出来る精一杯のサポートをしていくと決めた。血の繋がった身内であれ、出自の違う他人であれ、本当に心から私の存在を必要として愛してくれる人は必ずいる。そんな人達に出会う為にも、日々己を磨き自分らしく日だまりの道を歩いていこうと決めた。

私の現状を言えば、現実的事実として辛いことは沢山あるし、新しい動きを始めたことにより、否定的な意見もいただくし、時には非難をされることもある。毎日早朝から動き出し、時には日をまたいでしまう位活動をし、体がくたくたに疲れてしまうこともある。

それでも「楽しい」のだ。自らの本意で決めた生き方を自ら決めた方向性で歩み続けること、それが「生きている」ことであるし、そこから得られる経験や知識、痛みの享受は確実に私の目指す世界の糧となっている。だから「楽しい」のだと思う。

そんな野良猫の生活は一言でいえば「孤独」である。時には愛情が欲しくなり、時には一緒に歩く仲間が欲しくなることも稀にある。しかしその孤独こそ自らを愛することの出来る数少ない環境であり、主客双方の観点で自分を高める機会を得られる素晴らしい状況だと考える。だから孤独は寂しいものでは決してなく、自分自身が自分の世界の住人たらしめる無限の拡がりを持つ「世界」なのだと。

そんな世界に感謝をもって縦横無尽に楽しむ

Pray Myself,PlayThe World”~

こそが私の座右の銘の一つとなっている。

3.好奇心旺盛

猫は移ろ気で、興味のあるものを見つけてはそちらに気持ちを向ける。そしてまた別に気を引くものがあればそちらに目が映る。まして野良猫なら人間世界の外的状況故、目に入るものは沢山あるだろう。それは言い方を変えれば、猫は自分の興味ごとを新たに見つける達人なのかもしれない。勿論人間がそうでは責任感も何もあったものではないが、夢中になれるものを追い続けることこそ人生を豊かに生きる秘訣なのではないかと思った。奇しくも他人に合わせ自分を無くしていた過去の自分は、結果多大なストレスを被っていた。同じ移ろぎでも「振り回されている」のと「好奇心による自分発信の行動」とでは意味がまるで違う。前者はストレスフル、後者はストレスレスである。つまり「自己愛」に基づいてやりたいこと、生きていくことを追求すれば、それは自ずとストレスの解消になる。なのでそれを探し、それに使える時間を増やす為に、後輩実業家より伝授された時間管理の概念は私の日々の行動のベースとなっている。今ではいろんな場所に顔を出し、多方面の仕事の従事者と会う機会に自らを投じているが、仕事や友情など得られることもある半面、嫌な思い、時には実害があったりもすることがある。しかし後者は自己の成長の為の「経験」であるし、前者は自ら歩いてきた道の好結果と捉えることも出来、目標に向かった日々の充足を感じている。

~おいらは野良猫。日だまりの道を風の吹くまま気の向くままに~

今日も野良猫は自らの道を歩いている。

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