~はじめに~

現在は後遺症の様なものが身体に残ったものの、 豊かな心や夢を持ち、それに向かって確かに前進している自分を感じます。

この記録を始めたのは過去の私と同じ様に苦しんでいる方に、少しでも精神薬ではないストレス解放の方法・改善方法等をお伝えしたいと共に「俺は今自分の足で立って歩いている」という自分自身への容認・感謝を未来へのエネルギーとしたかったからです。書き起こしの際過去を思い出して辛くはなりましたが、それ以上に「 この当時も不器用なりに頑張って生きてるな。よくやったよ。」と過去の自分に対する賞賛も同時に湧き上がってきました。

人はいくつになっても変わることが出来ます。道中は辛いでしょうが、なりたい自分のイメージを失わず進んで行けばどんな辛いことも乗り越えられると実感しました。

私の経験や情報がお困りの方の一助になれたら幸いです

~起~

生い立ち・1973年東京の下町にて個人会社経営の家に長男として生誕。父は他人には良い人だが身内には比較的高圧な性格で、私が成人になる迄殆ど会話した記憶がない。母は曲がったことを嫌う等生真面目な性格。目の前にあることを兎に角一所懸命にこなす人。それ故か自分の理解外の事物を受け入れたがらない。

私自身は周囲からは「優しい子」と言われていたが、その様な環境下で育ったこともあり、人の目を必要以上に気にして生きてきた。ものの考えページにも記述しているが、人に優しくしたくてしているのと、傷つきたくない一心から人の目を気にした「甘さ」や「恐れからの譲歩」が混同し、成人して暫くはそのことによる自分への嫌悪感を持っていた。

今にして思えばそんな自分の持った被害妄想も多分に手伝っていたのだろうが、幼少~思春期迄は学校でイジメを受けていた。現代では引越をし環境を変える等、イジメに対する対応・ものの見方も少々ではあるが変わりつつあるものの、当時30年以上前の対応として、「弱い」「根性なし」とされそんな状態でも学校に行くことは当たり前とされていた。多分に漏れず我が家も同様であった。思い起こせばこの時から様々なストレス症状が断続してあった記憶がある。当時より自宅には猫を飼うようになり、家にいる時は大体猫と遊んでいた。それから今に至るまで猫達との共生生活が続くことになる。

やがて大学を卒業し、母の知人の会社に縁故入社した。入学した大学での部活動生活は非常に充実していたし、そちらでの体験や人間関係に救われ、不安はあったもののそれらはこれからお金を頂く社会人になることの背中を押してくれた。しかしながらある種特殊な会社環境だったこともあり、次第に自分自身の心の置き所がわからなくなり、精神的な理由で一年半で退社、「しばらくは~」の感覚で無職・アルバイト生活を送る。

26歳の頃、当時働いていた食事配送のアルバイト中、届け先の指定暴力団事務所への配送後の帰路運転中に表現の仕様がない程の激しい不安感恐怖感に襲われる。暫く身動きが取れなかったが、その場は死にもの狂いで車を運転してバイト先に戻り、翌日早朝母に連れられ総合病院へ。そちらの精神科での診断は「自律神経失調症」。

思えばこの日から長い戦いが始まった訳だが、当時は薬を飲んでいれば治るものと思っていたし、寧ろ気の弱い自分は薬を飲んでいる位がこの厳しい社会で生きられると思っていた。その後日「この歳でフラフラしているのはどうか」という理由から父経営の会社にてアルバイト採用される。

それから一年経ったものの、メンタルの改善は一向に見られなかった。寧ろめまいや吐き気等の身体症状も伴い従来の神経質さが増しているかの様な感覚さえあった。

そんな時、その当時母が観ていたTV番組で、親身に事細かに精神の病について語っている精神科医の特集があった。どうも当該のクリニックが近郊とのこと、救われた気持ちでそちらに転院した。しかしそちらでの診断は「パニック障害」それに伴いまた違う種類の薬が「特効薬」として処方された。そうか、違う病気だったんだ。だから今まで治らなかったんだ。これで、、、、

しかし初診から二ヶ月程が経ち、むしろ辛い症状は右肩上がりに悪化していった。流石に不安に思い診察時に医師に「薬を変えても辛いままです。本当に僕の病気は治るんでしょうか。。」と恐る恐る聞いた。

「私は今まで何人もこの方法で患者さんを楽にしてきたんだ!そのうち薬が体に慣れたら楽になるだろうから黙って待ってなさい!」との答えだった。更に、「あんたの病気は一生治らない。薬で生涯コントロールしていくものなんだ!」と。

ただ辛い一心から聞いたことが何倍にもなって我が身に返ってきた。「一生治らない」という言葉と同じ位、辛さを聞き入れてもらえなかったのが本当にショックだったのを今でも記憶している。病院帰路の電車車中でただただ心細く不安だった。

そんな状況の中、父が私を営業として正社員入社させてくれた。どうして正社員に?とも考えたが、その時は父に認められたと思い嬉しかったものである。しかし与えられる仕事はほぼゼロ。日がな何もすることがなくただ悶々としていたのを覚えている。

高圧的な父が時折見せていた、慢性的な資金・売上不足への不満や不安の言葉を幼少より聞いてきただけに、自分が何かしなければという考えが余計に自分を焦燥させた。

やがて知人サークルで知り合った女性とスピード婚約。当時薬の副作用も手伝って頭髪の殆どが抜け落ちており、また薬を飲んでいることも打ち明けた。それでも「一緒に治していこう」と言ってくれたのは何より嬉しかった。この人を一生かけて幸せにしようと誓った。その半年後に結婚。その5年後には35年ローンで一戸建ても購入した。

そんな折、今までの病気の経緯を旧知の内科医の、同じく内科医の子息に相談、少々大学で精神医学を勉強したとの事、これを試してみてはどうかと「SSRI・P」を処方された。慣れるまでは酷い吐き気に襲われたが、しばらくして精神症状が軽快、これはひょっとしたら。。そう思った。

だが、それに対する副作用が酷かった。いくつもの症状が襲い、遂には起き上がる事も苦痛を伴う様になった。その事を前述内科医に告げたところ「良い点もあるのだろうし我慢してください。辛かったら鎮痛剤や胃腸薬も出します」との返答だった。辛さを訴えに何度も通院したが最後には「私は専門外で解らない事だってあるんだ!」と一喝された。

加えてこの薬を止めようとすると、全身に虫の這いずる様な所謂「離脱症状」が強く襲ってきた。自分の状況を相談する医師もおらず途方に暮れ、ネットで話を聞いてくれそうな病院を探した。所謂ドクターショッピングの始まりである。

そんな中でも会社の慢性的な資金不足が相変わらず続いていた。元々メーカーからのもらい仕事、新規商売は人頼みの風潮が強い業界、末端の零細企業には中々そんな話は巡って来なかった。考えた挙句、飛び込みの新規営業をしようと決断した。その旨社の人間に伝えたものの、「仕事は貰うもの」という考えが固定化されていたので寧ろ否定的・非協力的な返答しかなかった。それならばと書庫にある各社資料を片っ端から引っ張り出し、現況の商売と重ならないものをピックアップ、新規開拓商売に力を貸してくれそうな会社にアポイントを取って話を聞いてもらった。幸いその中で協力してくれた会社があり、インターネットでその商品が売れそうな会社を見つけては面会・プレゼンのアポイントを取った。初めはもちろん上手くいかなかったが、そんな活動は徐々に花開き、数件リピート注文が来るまでになった。

そんな有頂天な折、酒に酔って旧知の人間と電話で話したくなり、アドレス帳を検索していると目に留まったのが大学の部活時代の後輩だった。久しぶりの、しかも酔っ払いの電話にも関わらず、彼は快く応対してくれ、今度会いましょうとまで言ってくれた。後日再会した彼は、当時の少年の様な笑顔を残しつつも、太い大木の様な揺るがぬ落ち着きを感じさせた。どうやら学校を中退したのちに起業をし、今では会社数件を運営、当時資産数億を超える実業家になったという。自分がなりふり構わずやってきた仕事が小さくも思えたが、何より同じ釜の飯を食べた彼が成功していた事に驚きや喜びを飛び越えて感動したのを覚えている。今では日本に限らず世界を飛び回っているとのことだが、また会ってくれるかの問いに笑顔で快諾してくれた。

そんな彼と接した事も手伝い、それまで以上に営業に注力はした。時にそれは朝方まで及ぶ事もあった。「もっと仕事を増やせばお金が貰えて幸せになれる。家族にも喜んで貰える、認めてもらえる。」その一心で頑張った。

しかしそんな事が長く続く訳もなく、身体症状・精神症状の悪化という望まぬ結果となり仕事への集中も覚束なくなっていた。暫くは思いのみで動けていたものの、それにも強く限界を感じていた。その事を後輩実業家に相談したところ「この人に聞いてみては」と一人の男性と引き合わせてくれた。その彼は見た目は所謂イケメンで物腰柔らかな人間だったが、ゲルソン療法や安保徹先生の理論を若くして踏襲したヘルスカウンセラーだった。その彼に今に至るまでの状態を出来るだけ事細かに説明しどうしたら良いのかを訪ねたところ、

「薬で治る事はない。それにこれ程の投薬量〔当時一日25錠を前後〕ではかえって病気が作られている。」

「習慣的な薬の摂取はやめてください。」と、今迄何処か疑念だったが何となく気付いていた部分を掘り返した。ショックだった。何よりも、現在ここにいる自分が消え入ってしまいそうだった。

そんな状態の私に彼は、それに対する対策を事細かに教えてくれ、最後に「僕も微力ながら応援します。一緒に頑張りましょう。」と声がけしてくれた。若いのにこれだけの力があるのかと、ある種穿った目で思ったものだが、それを超える程に、「あんな風に人の力になれる人間になりたいな」と感じた。と同時に、幸せになる為に目先のお金を追いかけていた自分が途轍もなくちっぽけに思え、急に自分が揺らいだ気がした。

「俺は今どこに立って何をしてるんだろう。。」

それから間もなくして父がステージ3の副鼻腔がんを告知された。折しも業界全体が下火への傾きを強めていった。海外への製造拠点移行等により国内製造会社の閉鎖や縮小などが相次ぎ、それに伴い受注はみるみるうちに減っていった時だった。自身の心身状態も最早限界近くにまで来ていた。

「一体どうしたらいいのか。。こんな状況で一体何をしたらいいのか。。。もういっそのこと死んでしまった方が。。。。」そこまでの絶望感や無力感が毎日の様に自分を襲い、その為に体調も崩す。正に負のスパイラルだった。

「どうしたら。。。」

そんなある時前述の後輩実業家と再び会えることとなった。

事業で大成したとは言え、どこかでまだ部活時代の後輩として見ていたし、実際にその様な態度で接していた。しかし会合を重ねるにつれ、彼の持つ人としての「安定感」に途轍もなく惹かれていった。

「俺もこうなれたら家族をちゃんと守れるのに。。」

やがて彼のその「安定感」は自分自身の現在の状況をリアルに振り返らせた。

「。。結局俺はどうしたいんだ。。」

会合当日、それまで悶々と悩んでいたことを上っ面の理屈ではなく、自分の心からの気持ちを彼に聞いてもらいたく、精神薬を飲まない状態で会合した。

なぜそんなことをしたのか、そもそもそんな必要があったのかと今では笑って振り返れるが、ありのままの自分をみて欲しいという一心からしたのだろう。

そんな自分が彼に言った心からの声は、

「この薬の害から抜け出したい!自分に仕事の仕方を教えて下さい!自分の足で立って生きていける力が欲しいです!!弟子にして下さい!!」

土下座をした。

自分と違い社会的地位の確立された彼に自分が出来る精一杯を見せたかった。薬の作用や原病、元々のマイナス思考から何度も死にたいと考えていた自分の心の声は「生きたい」だった。

その瞬間から彼を師と思い、全てを敬語で話す様になった。

数ヶ月に一度、彼が東京に来る日の多忙な時間の合間をもらって色々な事を教えてもらい、吸収しようと努めた。そんな日々が続いた。

それから数年経ち、同じ月に父が亡くなり妻に離縁を告知された。今にして思えばそうなるべく流れだったのだろうが、当時は頭が真っ白になった。人間ショックが過ぎるとそんな状態になることを体験した。

加えて父の葬儀の場で、会社の信用や先行き等を懸念した複数取引先担当が心無い声をいくつも自分や母に浴びせてきた。頭の中が未だ真っ白だった状態に加え、当時は弁も立たず、業界の知識・技術・人脈等の力も無く、取引先の立場からすれば正論だったのでただ耐えるしかなかった。

「自分の足で立って生きていける力が欲しい。大事な人を守れる力が欲しい。」

自分を支えていたのは心に唯一あったこの言葉だけだった。

~承~

「・・・こんなにあるのか・・・」

その時は途方もなく長い道のりに思えた。これ以前に少しの期間だけだが、P減薬の苦しみを味わっただけに幾度か躊躇したが最早やるしかなかった。

「生まれ変わりたい」ただその一念で。

そんな時当時かかりつけの医師より診断時、「どうも訴えを聞いていると双極性障害Ⅱ型の疑いがありそうです。診断には光トポグラフィー検査をしますが、そうなると検査にあたりPの服用が邪魔になりますのでPを止めましょう。」

チャンスと思った。これで一種類減らせる。この日よりPを減薬することとなったのだが・・・待っていたのは「生き地獄」だった。

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正直その時の状況を思い出そうとしても全ては中々出てこない。辛い記憶は奥底にしまい、忘れてしまう様な脳の仕組みがあることを以前聞いたことがあるがそれに類するものかもしれない。

当時その辛さを訴えても母は理解が出来なかったし、ただ遠くより見ているだけだった。というよりそれを明確な言葉として形成・発言できなかった。早い話自分で思っていることをどう口にしていいのかの言語化が頭の中で出来なかった。

そんな状況でも基本的には出社・営業していた。どうしても辛かったら帰らせて貰えたが、私の状況を知る由もない(跡取りがそうだと知ったらそれはそれで取引上問題になったかも・・)取引先はそんな心身困ぱいな状態の私の脆い部分を容赦なくついてきた。

より心身過敏な状態でのミスは更なるミスを恐れた。それでもやらねばならない。他に任せられる人もなく自分だけしかいないのだから・・いつもそうやって限界な状態でフラフラと帰宅したのを覚えている。

前述のカウンセラーの彼からのアドバイスは「とにかく水を飲むこと、出来るなら運動を軽くてもすること」だった。減薬当初運動はとても出来る状態ではなかったが、とにかく水を飲みまくった。脂溶性を持つ薬の脂肪分解を少しでも早めるために体全体の流れを良くするというのが目的だった。帰宅後も辛い離脱症状はおさまることはなく、布団に入ってはフラッシュバックで眠れない日々が何日も続いた。いや、実際には眠れていたが、それは気絶と表現するに近い休息だった。

Pは通常、最大服用数より2週間~1か月毎に様子を見て半減していくのが、その過程で前文の蓄積も重なったせいもあり、この世に存在していることすら辛くなる様々な心身症状に襲われた。それは例えるなら体の中の細胞一つ一つをつままれたような感覚、もし自らの生命を瞬時にリセットできるボタンがあるのなら迷わず押したくなる様なものだった。

あれだけ心から薬を絶つと決めていたのに、私は担当医に方法論を問わない助けを懇願した。Pに限らず、薬には半減期というものがあり、その倍数の時間をかけ体から薬効が抜けてゆく。ただそれは個人差があり、体内代謝や血流が遅いと薬効は長く続く。つまり言い換えれば薬の副作用・反作用も長く残ることを意味した。

この訴えに対し医師が処方したのが、ベンゾジアゼピン系最高の力価を持つと言われるRだった。

それを服用することによって、今まで苦しめられていた症状が嘘のように無くなった。「それでは頓服で」と数錠貰ったが、時間が経てばまた元の生き地獄に。しばらくは耐えているものの又我慢ならなくなった状況でRを服用。このRが精神薬断薬後も苦しめられる後遺症の引き金になるのだが当時は知る由もなく、飲めばPの離脱症状の苦しさから解放されるので服用、それを繰り返すうちにやがてRの定量服用となり「依存」が形成されていった。

このRの力もあり、やがてPの断薬、その他常飲していた薬の減・断薬も順次出来た。その作業も苦しかったが、Pの離脱症状の苦しさに比べたら些事に思えた。

P減薬の辛さが減ったことにより、血流・代謝を良くする為とにかく体を動かした。食事の内容も変えた。ことに精神薬は脂溶性の為脂肪や脳に入り込んでしまう。その為体内の脂を入れ替えなければならない。そうしないと「異物」がいつまでも体内に留まり、体の不調の原因・果ては他の病気の誘発につながると前述のカウンセラーの彼から教えてもらったからだ。

加えてものの考え方においても、生来のマイナス思考を変えるべく様々な文献を読み漁った。特にその支柱となったのが後輩実業家から教えてもらった、仕事(社会)に対する己のあり方だった。彼は押し付け的な指導ではなく、自分が困っていること、停滞しているを話し、それに対する回答をしてくれた。それは時に己の無力さを痛感し辛くなることもあったが、自分の足で立って生きていくのに確かな一歩を踏んでいるという実感の方が強かった。

仕事、離脱症状克服と自分を変える為の作業の同時進行は確かに辛いもので体調優先に行っていたが、不要なものを無くし、自分に足りないものを補っている確かな充実感を与えてくれた。事細かに減薬を指示してれる医師がいなかったこともあり、Pを始め、諸種精神薬の減・断薬にここまで約一年を要した。残りはRと睡眠導入剤2種を残すのみとなった。

Pの減・断薬の恐怖ともいえる体験があっただけに、その日常的辛さが少なくなり始めた段階でもためらう心はあったが、もはや後戻りはしたくなかった。Rも減らしたい旨当時の担当医に話し実施するも、減薬の最初の段階からとんでもなく辛い症状に襲われた。

それはPの離脱症状とは質の違った、例えるならインフルエンザと全身神経痛・全身筋肉痛、その他身体症状が絶え間なく続き、加えて五感と物事の受け取り方が「過敏な状態」であった。離脱症状がひどかったら元の服用寮に戻すのが当時の担当医の方法、しかし減薬の初歩段階でこの様な状態、今迄これほど過剰な反応を示した患者を診たことがなかったらしく、色々検討はしてくれたものの出された結論が「私の手には負えません」だった。見捨てられた感はあったものの、ここで立ち止まることはしたくなかった。

その一心からネット検索で減薬指導をしてくれそうな病院を片っ端から探したが、当時目ぼしいところは見つからなかった。

そんな中、NPOで精神薬の減断薬の相談に乗ってくれるサイトを発見した。わらをもつかむ気持ちで今迄の過程や現状を送ったところ、都内に一人、精神薬の過剰投与の危険性の啓発や漢方を使っての治療に明るい医師を紹介してもらった。取るものもとりあえず早速当該病院に予約を取り、紹介状を貰い転院手続きを取った。

その医師は一口で言えば「つかみどころがないひょうひょうとした人」だった。私の「減・断薬出来ますか?」の問いにも「まあ、やってみましょう」という返しだった。

その方法として一錠にも満たない、極微量の抗てんかん薬、リチウム剤を服用し、Rの離脱症状のショックを軽減するというものだった。確かにその一定効果はあったかもしれない。前述の症状が些少であれ軽くなった気がした。変わらず日常生活はしんどい状態であったが、話し合った減薬のペースでやっていこうと決まった。

ベンゾジアゼピン系の薬効として「緊張状態を緩和する」というものがある。ストレス等で緊張状態の続いた神経を緩和させるのだが、4週間以上の常用・定量服用をすることにより「耐性」が形成される。従来緊張している状態の神経を強制的に緩める作用が「体に慣れてしまう」のである。こうなるとより強い薬効のベンゾジアゼピンがないと神経が緩まなくなるのでさらに強い薬効の薬を投与、それを常用するようになればまた更に効かなくなりより強い薬効のものを飲むというスパイラルが生まれ、肉体的・精神的にも「依存」が出来てしまう。Rは正にその終着点ともいえる薬だった。その為それを体から抜くという行為は相応の苦痛を伴う。

転院から8か月が経過、その間はPの減薬時と同様、どうしてもしんどい時以外は通常の生活をしていた。営業活動や病院に通うため電車に乗り移動するのだが、一歩歩くことにすら苦を覚えた。今迄飲んでいた筋弛緩作用を持つ薬を減らしたのだからその影響だろう、その他にも寒気や目まい等様々あったが、一番つらかったのが精神症状だった。とにかく「全て」に敏感で、ちょっとしたことにもショックを受けていた。例えるなら、転んで肌がむき出しになった出来立ての傷に塩を刷り込むような感覚だった。加えてPの減薬時にもあった言語表現化の困難、音の過大な響き、手足が勝手に動く等様々な症状に見舞われた。そしてそれは減薬が進むたびに反比例的に酷くなり、何度も挫折しかけては減薬の期間を延ばす等していた。

この時に後に登場する「後遺症」の前触れがあったが、その時は違和感程度で差して気にも留めない位だった。

当時の担当医は前述のように一般的な精神科医より薬の害に対する理解はあり、減薬の苦痛の対処として漢方を出してくれたり、減薬スケジュールの相談にも乗ってくれていたが、自分自身考えが頭の中でまとまらない状態ながらも「どこか違う」違和を感じていた。それは診察の端々に見受けられた。

そしてとうとうRの減薬が90%程済んだ頃に「これ以上やったら死んでしまう!」と強く感じた、脳の拍動(イメージ)と心臓の激しい動悸に襲われた。慌てて1包(0.0625mg)、減らす前の元の服用量に戻し、水を飲み、深呼吸をする等して対処し、とにかくこの症状が落ち着くのを待った。それから数時間してようやく症状が収束していった。

襲ってきたとんでもない恐怖感はそのままに、その数日後担当医の下に向かった。当時の状況を言葉にならない言葉、文脈のまとまらない感覚だけの文章で精一杯伝えた。その時医師が発した言葉は「もうやめませんか?そんなに薬を無くすことに命懸けでこの先どうします?あなたの様な生来気の弱い人はこんな少量なら薬を飲んでいた位が丁度いいかもしれませんよ」

耳を疑う表現もあったが、心神耗弱状態も手伝ってか全てが正論の様に聞こえた。「このままでいた方がいいのかな。。。薬もだいぶ減らしたしもう充分苦しんだ。無理に減らして体がダメになってしまったら元も子もない。。。」

Rを0.1875mg(1錠0.5mg)、睡眠導入剤0.25mg、その他漢方と減薬対処薬を残し、一応の減薬行程は終わった。ここまで7か月を要した。同時に当時の体の状況では人と会っても迷惑困惑を悪戯に与えるだけと判断、母親以外の人的接触を期間限定で絶った。季節は夏、日の光が背を向けるほど眩しすぎた。(2013年6月現在)

~転~

Rの減薬ストップの日より「こんな状態でこの先生きていられるのだろうか」という状態になっていた。

人に会うのが怖い、そもそも会話ができる自信がない、過剰なまでに周囲を意識する神経質さ(イライラ、過敏感)、集中力・思考判断力・記憶力等頭がうまく働かない、この世の中が幕で覆われたような錯覚等の精神状態に加え、全身の筋肉の縮小やコリ、神経の痛み、数え上げたらキリがないほどの身体症状が残った。当時の担当医はそんな状態に対し漢方を処方してくれたが、特に症状に変わりはなかった。

それから間もなく、当該担当医が職場を転院することとなり、当時の東京の病院から移動に更に一時間程余分にかかる場所の配属となった。そうなってしまっては他の病院を探すのが一般的な考えだと思うが、「私の様に微量に分包して出す医師はそうはいない」という担当医の言葉と共に、患者特有の、決して信頼とは違った、ある種の見捨てられる恐怖、また病院が変わったら薬を元の量近くに増やされるのではという不安もあり、止むなく片道二時間をかけてそちらに月一度通院した。

その道中は実距離よりとてつもなく長く感じた。たどたどしく歩いては休み、しばらくしたらまた歩き。。。家から病院まで正味一時間五十分かかる計算が三時間半かかったこともあった。

「治る見込み」というより、いつこの生き地獄から抜け出せるのか。。最早ただ生きているだけの日々が続いた。そんな私に母は「今はないかもしれないけど、これから五年十年経った先、きっと何かが変わっている。そう信じよう。」と言ってくれた。傍目から見たらとても普通の状態とは言えない、ともすると異常行動者ともいえる我が息子の姿を正視することも辛かったはずで、まして前述の通り母は良くも悪くも常識的な人間、その心痛は今考えただけでも詫びるべくもない気分になる。最早その時点で当初の「薬をやめる」という目標は頭からほぼ消えていた。ただ少しでも歩行が出来るように、少しでも動けるように、少しでも体がちゃんと機能するように戻したい、その第一歩のみを思っていた。

初めの内は一周700Mの公園を500M歩く運動だけで限界だった。

だからまず一周することを目標とした。体を冷やさないことにも留意した。体を冷やせば体温が下がり、免疫力も下がる。そうなれば回復力も下がってしまう。長時間の温浴、食事内容の変更、レッグウォーマーや腹巻の常着等に気を配った。

そんなことを気力体力の許す中でやり続けて二か月、ふと「見たことのない景色」を見たくなった。

とはいえ人と接するのは相変わらず怖く、ネットにあるような観光名所に行くのははばかられた。でもどこかに行ってみたい。。。

考えた末に都バスの最終目的地である埠頭に行ってみようと決めた。最寄りのバス停より一人で乗車、都民でありながら見たことのない景色がバス外にはあった。ドキドキした。緊張からの心拍上昇もあったが、それ以上にワクワクしていた。やがて終点の埠頭に近づき見え始めた工場・倉庫街、仕事で見慣れているはずの風景がとても新鮮に見えた。

そして終点の埠頭に着いた時、見えたのが180度の視界広がる世界だった。苦しいはずの心身が、未知の世界を見たこと、行くまでの不安を乗り越えてとうとう着いた達成感から転じた幸福感で溢れていた。普通考えたらそんな近距離の、しかも都バスの移動で大げさと思うだろうが、その時は「出来たんだ!」という幸せが純粋に心身を満たしてくれた。それこそが「自己許容」「自己承認」の第一歩だったと思う。

今ではランニングや筋トレ、どこへの旅行も一人で行けるが、そういった本当の意味での自己肯定を成してくれるのは社会に出たら自分自身だけなんだと今では思っている。その時期に、前述の後輩実業家から教わっていた「時間管理」の概念が心の支えになっていたし、今ではその講師までも出来るようになった。

しかし、Rの減薬時に生じた、首・頭蓋間の違和感は確かな形となって徐々に首・背中・肩、締め付けられる頭痛へと広がっていった。それらはR減薬の離脱症状が年を経て減っていくのと反比例してだんだん強くなっていった。時に痛みを伴い、時に右半身が痺れ、また時には集中力欠如やイライラを発現させた。酷い時はさながら昆虫採集の虫の様に背中に一本針を貫通させられ、身動きするのも苦しかった。

ただそれらは動ける時に有酸素運動をしたり、長く風呂に入ったりすると嘘のように症状が消失する。なので心身しんどい状態でも逆に運動等で体を温め血流を促進させる様更に努めた。しんどいのに運動とは通常では中々理解されがたい行動だが、薬を長期間飲んでいたことと、減薬作業、長年の食の不摂生ですっかり「陰の体質(≒冷えの体質)」になっており、体が自然には温まりにくくなってしまった。それ故に免疫抵抗力も落ち、風も引きやすくなり、いわゆる「気象病」と呼ばれる様な、気温の高低、若干の気圧の変化にも心身に影響を感じるようになった。今でもそれらは残っているが、長期的な観点で日常習慣の修正の積み重ねをしていく中で徐々に改善への光が見えてきた。

過去の体験とその時に物事の捉え方の積み重ねにより、当時までの私は「自己否定」「他社への承認欲求」の塊になっていた。幼少より親に褒められた記憶というものが殆どなく、高圧的な父の態度にもおびえていたのが発端になり、この様な性格形成をされたのだろう。

そんな自分が本当に嫌いだった。だから傷つかぬ様に自分の行動範囲や理解を狭くしていった。

反面「これでは生きていくのが苦しいだけだ」と心のどこかで判っていた。そこへ向精神薬の一連の出来事が重なり益々その思いが膨らんでいった。その時期に「他人に認められるには」という、今となって考えたら「誤った」方向性を持ってしまい、その為の努力に注力してしまった。結果、事が裏目裏目に出てしまうことが多く、益々自己否定の傾向が強まってしまった。自分を好きになれない、他人に愛されたい、認めて受け入れてほしい等々、そんな自分の状態は負のスパイラルの如く現実世界を益々自分が存在しにくい世界に思わせた。

そんな自分の在り方を減断薬の時期と並行して徹底的に考えた。確かに相当苦しい時期ではあったが、以前webで見た記事で「減断薬行程は云わば悟りを開く様なものである」と表現されていた様に、そんな状態も手伝ってかその様な行為が出来たのかもしれない。

では今現在どうかと言えば、完璧ではないが右側の自分になりつつある。何より自分が大好きになった。現状様々な現実的困難があり日々慌ただしく動き回ってはいるが、「自分の足で立って歩き」、何より「生きている」という充足感がある。この方向性で自分らしくこの先生きていけるという自信を持ちこの記事を書けているということに色々な人への感謝を禁じ得ない。

~結~

文字通りこの節は「結び」。私が自分が決めた道を歩き続け、その結果どうなったかを5年後の2024年に書き記したいと考えている。野良猫を名乗った私が自ら決めた道を完遂するのか、それとも何処かの道端で誰の目にも触れずに寂しくのたれ死んでいるのか、勿論現時点では知る由もない。

確かに未来に対する恐れはある。人生は思わぬところに落とし穴があり、いつ憂き目に遭うかなど誰にも分からない。ひょっとしたら「結」に書く事は誰にも誇れる内容ではないのかもしれない。

でもたった一つ言えることは、「その時でも自分を愛している」ということである。以前の自己否定の塊だった自分を受け入れて認めることが出来、ありのままの自分を愛する事が出来た。まして結果はどうあれ、自分自身が決めた道を精一杯生きたことは誰にも恥じることはない。少なくとも色々なものから逃げて何もしなかった自分よりは遥かにマシと考える。

どんな苦難が待っていても、私はそれらを乗り越えていくだろう。そして未来にある、今は紙面で見ている「本当になりたい自分」への道を行くことで辿り着ける世界を思うだけでまた今日も歩を進めることが出来る。

そしてその世界にいる5年後の私は辿り着いた自分に言うだろう。

「よく頑張ったな、おかえり。」と。

今はそれだけを思い、一歩一歩を噛み締めて歩いている。